アメリカで高齢出産 3度の手術 生死を彷徨った私の記録

本日もお疲れさまです!

こんにちは オレゴンから ゆみです 

お陰様で今日も元気にしております。

私が息子を出産したのは43歳の誕生日2日前でした
高齢出産です。
予定日を過ぎても、全く前兆がなかったため
人工誘発剤を使っての予定出産をすることになり 
予定日から数えて8日後に予約を入れることになりました。

本にあるようなお手本通りに おしるしが来て、陣痛がきて出産できたら理想だなって

ずっと願っていましたが

出産のお手本通りなんて正直ない!出産はみんな違うしみんな命懸け

今回はアメリカでの私の出産、出産後3回の手術を乗り越えた体験をシェアしたいと思います。

私の出産経験の話が 今から出産を控えている方に不安な気持ちにさせてしまうかもしれないし
手術とかの話が苦手な方は今回の記事はここまでで。

目次

出産前に

アメリカの産院では、バースプランと言って出産時の希望を聞かれます。

  • どんな音楽をかけて欲しいか?
  • 冷暖房どうしたいか?
  • 照明の調節
  • 会陰切開を希望するのか?
  • 無痛分娩
  • 自然分娩
  • 臍の緒を切る人の希望
  • 誰が立ち会うか  

私はかけて欲しい音楽をリクエストして
会陰切開に関しては、必要であればに回答しました。
自然分娩を希望して、臍の緒と立会人は主人と回答して書類を提出しました。

結果 叶えられた希望は、臍の緒と立会人だけで

あとは全てが叶いませんでした。

いざ出産へ!

当日の朝は6時に病院へ

すぐに個室に案内されて、アメリカの病院服に着替えました。
アメリカの病院で、レントゲンとか検査に行った事がある方はご存知だと思いますが
後ろが全開になる仕組みで、気を許したらはだけまくる代物です。

すぐに人工誘発剤を投与されました。

8:00 am  軽い陣痛が始まる

11:30am DRから帝王切開になる確率が半々と告げられる

2:00pm 陣痛の間隔と強さが増してく

4:00pm  人工破水する
      3分ごとの陣痛、痛みはレベル9 


6:00pm  気が遠くなるほど痛い、このまま先がわからないこの痛みに耐えれるのか不安でしかない
         
7:20pm  一向に変化はなく、無痛分娩、帝王切開の可能性もあるため麻酔を勧められる。
    

もう少し耐えることをつたえたら。。。
    
その時の麻酔医が言ったのは
今ならすぐ処置ができるけど、
後からだったら私はいつ来れるかわからないからね。
オーダーを受けてから2時間は待つことになるからって言われました。 

えっまじで?そんなんものなのか?この田舎ではあなたしか麻酔医師はいないのか?
半ば脅しのような言葉に最終決断をする。

麻酔を打つことに。
    
8:30pm 今までの痛みが嘘のように痛みから解放される。

9:30Pm 子宮口 やっと3センチ弱。
12時を過ぎても子宮口が開かなければ帝王切開になると告げられる。

12:30am なんと子宮口8センチ

2:00am  子宮口10センチ ここからPUSHが始まります。

ここですごく戸惑ったのは、麻酔で下半身に感覚がなく
どこに力をいれていいのかがわからなくて私は頭の中で力むイメージを膨らませ、
参道を頑張って降りてくる赤ちゃんのことを思い浮かべながら挑みました。

2:56am 何回めかのPUSHの後無事出産

しかし出産後、息子は呼吸が弱くすぐに別室に連れていかれました。

出産後

出産を終えて 疲れ果ててた私はとにかく休みたかった 食べてないし、寝てないし。

しかし、すぐに看護師3人が病室に来て今からシャワーを浴びなさいって。

何度も断ったにも関わらず

半ば強制的に3人がかりで起こされてシャワー室へ

まずトイレに座わらされたんだけど、私はその場で失神しました。

その後の記憶はしばらく飛んでます。

気がついた時はベッドの上でした。

勝手な憶測かもしれないけど、明け方近くで勤務の交代とかあってそれまでにとにかくやらなきゃって
感じの対応だった気がする、とにかく早く早くって。。。きっと麻酔医師もそうだったと思う。
みんな人間やし、家庭もあるしわかるけど、今思い出してもこの3人の女性の看護師さんたち本当に酷かったな。この後もっとひどい看護士さん登場します (苦笑)

高齢出産のリスク

一般に35歳以上の初産が高齢出産になり、若年出産に比べてリスクが高まります。

医師からも言われましたが、やはり高齢の場合はいくら体力がある方でも

子宮や骨盤周りの筋肉の柔軟性が低下しているため

子宮口が固く開きにくくなる為、出産にまでに時間がかかってしまうことが多いそうです。

実際私もなん度も言われました。固いって。。。

出産後 立て続け2回手術

失神した後、気づいた時はベッドの上でした。

その後は痛みもなく、翌日の夕方には退院する予定でした。

その日の10:00pm(出産19時間後)友人がお寿司を差し入れてくれたのですが

それがめっちゃくちゃ美味しかったことを今でも覚えています。

痛みがやってくる

友人が帰った後、なんとなく痛い。。レベル2〜3くらいの痛み。

旦那に、なんか痛いんだけど。。。あれ痛いぞって、何この痛み。。

その2〜3分後、言葉に出せないほどのMAXの痛みが

のけぞって、叫びました。何が起こったかわからない!!
お腹の中からなのか?傷口からなのか?痛みの表現ができない 

ぎゃああああああって
とにかく叫んだ、痛くて痛くて

ここでまた記憶が飛びます。意識を失いました。

一瞬の記憶があるのは

ドラマで皆、一度は聞いたことみたことがあるはずの言葉と画面!
ご家族の方はここまででって いう看護師の言葉と観音開きの手術室のドアが見えたこと。

手術室に運ばれていたんだね。

後で聞いたんだけど、この時何が起こったというとね。怖いよー痛いよー(笑)出産時、会陰切開されなかった為に、すごく裂けたんです、この時のDRの説明は ”蕾が花咲くように開いた状態に裂けた”と言われました。それを縫ったわけです。ここまではまあ聞く話ですよね?
で、私が叫び痛みがMAXになるまでの間、子宮の中でずっと出血し続けていて、子宮の中に収まりきらなかった血が、縫い口を押し破り溢れ出た時の痛みだったようです。

一瞬目覚める

ほんの一瞬、目が開いたんです。

二つの顔とだんなの声。(しっかりは見えませんでした)

その一瞬の瞬間、息ができないことに気づき、死ぬ と思ったと同時に意識をなくす。

この時の一瞬が一番死を感じた。ああ死ぬなって。窒息死ってこんな感じで息ができなくなるのかなぁって。

のちに聞いたことですが、ここはリカバリールームだったそうです

そのまま気を失った私は2回目の手術に進んだようです。

ICU(集中治療室)

目が覚めた時はICUだった。

どれだけの時間が経ったのかも、何があったのかも考えることができなかった。

でも生きてたぁーー!

私は全裸でそして、色んなチューブがついていました。(もちろんブランケットはかけられていたよ)

ここICUでの看護士さんはプロだったなぁ。
全く身動きができない私は、ベッドの上から何度もお礼を言いました。

彼が言った今でも忘れられない言葉があります。

”私は患者さんが、自分の家族だったらと思って仕事をしています”って。

まさにその通りで、細いところにまで気遣いと優しさが溢れた看護士さんでした。

OB(産科の病室へ)

ICUから産科の病室に移された時の私

ICUから個室に戻された私は、大変な手術だったと聞かされました。
身体の2/3の血液を失い、10ユニットの輸血をされたそうです。

個室に移ったこの日は私の43歳の誕生日でした。
友人が花束とケーキでお祝いしてくれたことを思い出します。
今でも忘れられない誕生日になりました。

みなさんそう、赤ちゃんどこいった!?と思ってましたよね?
この写真の時はまだでしたが、のちに私のベッドの横に息子が来ました。

しかし、私は起き上がることも、息子を抱くこともできません。
必然的に全て看護師さんにお願いすることになります。

そして、ここの病室での時間が 私のメンタルをどんどん壊わして行きます

私の部屋はナースステーションの目の前だっただけどね

とにかく動けないから、息子が泣けば助けがいる、ミルクに、おむつ、私は何もできなくて
その度にナースコールをして、必要な旨をマイク越しに説明をします。

同時に私自身の助けも必要で、連絡をするんだけどもう助けを求めてはダメなのか?と思うほどの対応で

そんな中、もう無理だ!って思った出来事が起きました。

私は出産と、手術でできた傷を、絶えず冷やしていなければいけない状態でした。
そのアイスパック(カーバーがついていて中の保冷剤/氷を変える仕組み)
を定期的に交換してもらうのですが

その日もぬるくなったアイスパックの交換をお願いしました。

交換に来た看護師がそのアイスパックを床に落としたんです。
どうするのかなぁってみてたら、その落ちたアイスパックを拾い上げ何事もなかったように
それに新しい保冷剤を入れ始めました。

私は患部にそれを使われる前に、それを使わないでと伝えたんだけど。
彼女は聞こえないふりをして、淡々と他のことを始めたから

 ここからちょっとだけドラマ風になるよー (笑)ついてきてねー

私は彼女に尋ねた

私:『あなたには子供はいますか?

看護師K:『3人いるわよー 娘が二人と息子がね』

私:『もしあなたの娘が、今の私の状態だったとしても あなたは同じように看護しますか?』

看護師K:『なんの意味?』

私:『質問しただけです』

看護師K:『何が言いたいのよ!』

私:『床に落ちた医療用具を患者の患部に使うのかなぁって思っただけです』

彼女は何も答えることなく、無言で部屋を後にしました。

私はもうこの時点で、ここにいてはおかしくなると思い 歩けないし、チューブつけたままだったけど
退院したい旨を伝えてもらい、この日の夜9時過ぎにストレッチャーに乗せられ病院を出ました。

自宅療養の始まり

起き上がることもできない状態での退院。  あのまま病院にいたらきっとメンタルやられてたと思う。。

とにかく一向によくもならなくて、時間だけが過ぎて行く感じだった。

有難いことに、昼間は日本人の友人達が
日替わりで食べ物の差し入れと、産まれたばかりの息子のお世話
そして私のお世話をしにきてくれてたんです。

しかし この先回復までにどれだけかかるか分からず
心配した日本の母が一人で一週間後に来てくれることになりました。
英語も話せないし、当時73歳だったかなぁ、よく決心してくれたと思います。

退院から一週間がたちやっとチューブが取れたんだけど、傷口も痛みもまだまだ酷く

DRからは傷口の瘡蓋を柔らかくするために、1日に2回湯船に浸かるようにと指示されていました。

その3日後のこと。

友人が来ていてくれる間に湯船に浸かり終えて 立ち上がった途端に 出血

ポタポタとかじゃなくて 流れ出る 感じの出血 

もうドラマで見る殺人現場の如くバスタブは血の海!!!

友人に息子を託し、旦那呼んですぐ病院へ 

3回目の手術

すぐに産科のベッドで待機させられたんだけどね

DRが来るのを待つ間、旦那は病院の責任者と
私が横になっている病室で
いかに看護師たちの私への扱いが悪かったかとかのクレーム入れている中

血圧とか測りに来た看護師が ” これは産後よくあることよ〜って” 

私はいや違うぞ!!!
寝ている間にもドクドクと血が出てるのがわかって、背中がその血で温かくなるのを感じるほどで
出血止まらないんですどおおおお!!!!!!!!!

ここでやっと、ことの大きさを病院内でそのプロたちが気付いたのよ! すごいでしょーこの病院

すぐに緊急手術をすることになったんだけどさ そりゃそうだろうさ ね

DRが私に、子宮を摘出するかもしれません、子供はもう産めなくなるかもしれませんと説明する中

この時のDRの説明聞いてて 
あああ私、死ぬかもなぁって思ったから 麻酔打つ前にお願いだから 家族に電話させえくれーって頼んだ。

まずは実家の母にお別れとありがとうとを言いたくて
電話したんだけどいつもなら必ずいる時間帯だったにも関わらず出ない!!!
なんででーへんのーって涙が出た。

次に日本に住む大親友に電話、出てくれた!
ことの説明して、何話したか覚えてないけどすごく冷静だったと思う。

次はここオレゴンでの家族のような存在の親友に電話、出てくれた!
もしもの時は息子を頼む!って後日本の家族との連絡も頼んだ

冷静なんだけど、すごく怖かった

この間も血圧測られたり点滴の準備やらされてるんだけど、
血管極細の私の腕、針がささらず若い男の看護師さんが焦ってたのを今でも覚えてる。

死ぬかもって思いながら、もうどうしょうもないんだなって不思議と死への恐怖はなかったことを覚えてます、とにかく産まれたばかりの息子のことと日本の家族にもう会えないかもっていうのが辛かった。

再びOB(産科の病室へ)

目が覚める!生きてる!!!生きてたよーー!!!!

手には痛み止めのペニシリンを注入できるボタンがずっと握らされていました。

痛みに応じて自分でボタンを押せるという。

痛みがあることは生きている証拠!しかし痛い。

この時された手術は、子宮動脈からの出血を止めるために血管にパイプを巻き付けて縛る処置がされました。

3日後退院。

明日には母が来る!

再び自宅療養

1年ぶりに会う母。顔見た途端号泣した私。

長旅で疲れているはずなのに、すぐにエプロンをつけて身の回りのことをしてくれた。

今回の手術でパイプの縫い付けに使った糸が患部にあったって痛くて歩けない

もちろん腰もお腹も痛くて、痛み止めが手放せない日々が続き
歩くことも耐え難く、糸をカットしてもらい とりあえず一つの痛みがなくなった。

この頃、自律神経も破壊されつつあり、旦那のモラハラも加速してたんだよなぁ。。

毎日ほぼ寝てきりで、とにかくずっと痛いんです、痛みとの戦いの日々でした。

手術から一週間後、やっと中のパイプのみが外されました。
DR曰く後三週間で完治できるはずって!

これ日本やったら絶対まだ入院してるよね?

その後も痛みは続き10日後に抜糸。

抜糸の後も痛みと出血を繰り返し、日常のことができるまでの生活になったのは
出産から3ヶ月ほどが過ぎた頃からでした。

DRに私が回復できた事はミラクルだと言われたのを覚えています。

まとめ

冒頭でも伝えましたが、出産は本当に命懸けです。

今ある私たちの命も、世界中の母たちが命懸けでこの世に送ってくれた奇跡の命です!

決して当たり前にある命じゃなくて、選び抜かれてある命です。

出産に関しては、山ほど情報もあるし

世の中にはあれはダメとかこれがいいとか、こうしなさいとか
これが正解って押し付けてくる人もいると思う。

出産に正解はないから!


お母さんと赤ちゃんが命懸けで、協力して産まれてくるものだと私は思います。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

この記事があなたのお役に立てたら嬉しいです


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